野猿峠
東京都八王子市絹ヶ丘3-45
「あたしはラブホテルで仕込まれた子どもであるらしい。」
角田光代の「空中庭園」はちょっと衝撃的な書出しで始る。そのホテルの名前が「ホテル野猿(のざる)」。主人公は「命名者のセンスを疑う」ものの中でも「地獄級」のホテルで生を受けたことを嘆くが、実在する“ホテル野猿(やえん)”および“野猿街道”の印象は確かに強烈で、忘れようとしても思い出せないぐらいすごい。
その名前の由来となった野猿峠は、大栗川と湯殿川の分水嶺にある。一説には、戦国時代の武将が甲(かぶと)を埋めたという伝説が、申(さる)に間違われて野猿になったとも言われている。
そんな苦笑いを誘う逸話とは裏腹に、多摩ニュータウンからゆるゆると峠へ登っていく道は何の変哲もない二車線道路で、上り詰めた先は何のためらいもなく八王子側へ下りていく。物語も、裏話も感じられない平凡な道だ。
峠の傍らに古い水飲み場を見つけた。牛馬のための水桶には猿の親子のレリーフが彫られ、山からしみ出した清水があふれている。ここでのどを潤した昔の旅人のことを思いながら一息ついた。緑陰に冷された風が気持良く、ただの通過点にしてしまうのは惜しい感じだ。
これが「由木街道」や「甲山峠」だったらここへ来ることもなかったな、と思ったら「野猿」という名前も悪くないと思えてきた。