龍泉洞
岩手県下閉伊郡岩泉町岩泉字神成1-1
バスを降りると、山は騒然としていた。「カタカタ」あるいは「ゲタゲタ」、どう表現して良いかわからないような、そしてカエルなのか鳥なのか正体もわからない鳴き声が大合唱となってあたりを包んでいる。
鍾乳洞の入場券売り場の方に訪ねてみると「ハルゼミ」だという。答えを聞いてもすぐには理解できない、わたしの知っているどのセミとも異なる不思議な「音」だった。
以前どこかで、外国で日本の映画を上映する際にセミの声を消すという話を聞いたことがあった。日本人には夏を感じさせる重要な効果音も、彼らには単なる騒音にしか聞こえないからだという。なるほど、もしかしたらこんなふうに聞こえているのかも。そんなふうに思わせるハルゼミの声だった。
鍾乳洞の奥には、神秘的な地底湖が眠っていた。日の出前の空に似た深い瑠璃色の湖面に白い雲のようなものが映っている。鍾乳洞の岩壁が映っているのか、湖底の岩が透けて見えているのか、幻想的で不思議な光景だ。
暗い洞内で写真を撮るためにわざわざ三脚を持っていったのに、地底湖の美しさに興奮してすっかりそのことを忘れてしまい、写真は手ぶれやピンぼけのものばかりになってしまった。
一番きれいな風景は思い出のなかで美化されて残っている。洞窟の中では聞こえるはずのないハルゼミの合唱と共に。