2001年11月17日(土)

念仏車

東京都世田谷区喜多見7-7

念仏車

江戸時代中期から明治にかけて、多摩川上流で伐採された材木は筏に組んで東京湾まで運ばれ、そこから深川木場の材木問屋へ運ばれていたという。筏を操って来た筏師が歩いて帰った道が「筏道」と呼ばれて多摩川の両岸に残っている。

府中の大國魂神社のくらやみ祭りでは潔斎のために品川沖で汲んだ汐水を使用するが、その水を運んだ道と言うことで「品川道」とも呼ばれている。一方、多摩川河口近くの地名を六郷と言ったことから「六郷道」という名前も残っているようだ。品川と六郷ではgoalが離れすぎているので、おそらく別の道がある区間では同じ道を通ったということなのだろう。

文献等で調べたわけではないが、旧跡の案内や道しるべなどから推察すると筏道は、世田谷・狛江・調布区間では、丸子川沿いから次太夫堀公園の南側を通り、世田谷通りの二の橋から狛江市役所の南を西へ向かって狛江四小近くで府中崖線に行き当たったあと、崖線に沿ってはけの道を辿ったようだ。

庚申塔とお地蔵様

ただ、調布と府中の境に近い太田塚から北西へ別れて飛田給駅へ通じる道に「旧品川道」という標識がある一方で、東郷寺の南側のはけ沿いに「いかだ道」の案内があり、筏道と品川道は完全には一致していない様に見える。あるいは、幾通りかの筏道があったのかも知れない。北へ進む道を行った連中は、甲州街道沿いの宿場に寄って稼いだ金を使ったりしたのだろう。

前置きが長くなったが、その筏道の世田谷・狛江境近くに念仏車という珍しい史跡がある。

念仏車というのは、六角形の車輪の各辺に「南無阿弥陀仏」の六文字が一文字ずつ彫られており、念仏を唱えながらこれを廻すと一回ごとにお経一巻分の功徳があると言うもので、民間信仰の貴重な遺跡として残されている。念仏車は文政四年(1821)、傍らのお地蔵さまは享保四年(1719)、庚申塔は元禄五年(1692)からと、古くから喜多見の地にあったものらしい。

そんな昔のこの辺はどんな景色で、どんな人たちがこの車を回したのだろう。

世田谷区教育委員会の説明板