多摩川の渡し

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多摩川は、昔からたびたび氾濫しては家や田畑を流出させ川の流れを変えてしまうことがあった。そのため橋をかけることができず、渡し船に頼っていたので、多摩川には上流から下流にいたるまで各所に渡し場があった。

この辺りの渡しは、対岸の矢野口・菅と調布を結ぶ重要な交通機関として、江戸時代から永い間続いてきた。近代になっても、調布に農地を持つ対岸の人達の農作業のための往来、農産物の運送、旧東京市内への肥引き、その他年中行事等に、渡しは人々の生活に欠かせないものであった。

この辺りには、いくつかの渡し場があったが、その渡しは昔から矢野口村・菅村の両村で運営されていた。多摩川の流れの移り変わりとともに、その場所もたびたび移動した。

渡し場の名称もその時々によって変わり、その中でも代表的なものに「上石原の渡し」「矢野口の渡し」「菅の渡し」「中野島の渡し」があった。

これらの渡しも、昭和十年、現在の多摩川原橋が完成し、また昭和四十六年には京王電鉄の相模原線が開通することによって順次姿を消していった。この地は、最後の渡しとなった「菅の渡し」のあった所である。

その「菅の渡し」も昭和四十八年をもって廃止された。

多摩川の筏流し

多摩川の筏流しは、江戸時代の中期以降に主として行われ、幕末から明治三十年代にかけて最盛期を迎えたといわれる。奥多摩の山々から切り出したスギ・ヒノキなどの木材を筏に組み、筏乗りが棹さして河口に近い六郷羽田の筏宿まで川下げし、そこからは船積みか、引筏で本所・深川などの材木問屋へと運んだ。

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筏流しは、秋の彼岸(九月二十二・三日ごろ)から翌年の八十八夜(五月一・二日ごろ)までと決められていたが、玉川上水の取入口がある羽村の堰を通過できたのは、月のうち五日・六日・十五日・十六日・二十五日・二十六日の六日間に限られていた。

筏乗りは、羽村の堰を過ぎると拝島か立川で泊まり、翌日は府中か調布に、三日目が二子泊まりで、四日目に六郷に着いた。

現在の多摩川原橋の下流、約百メートルの堤防道路脇にある二本の松は、調布に泊まる筏乗りが筏をつないだ松ということで、「筏の松」と呼ばれている。この松はまた別名「舟つなぎの松」ともいう。

筏宿は、「筏の松」から二百メートルぐらい下流の旧鶴川街道の両側にあった。亀屋・玉川屋と呼ばれた二軒で、明治末年から大正期にかけてよく利用されていた。しかし、今はその跡もない。

筏乗りの服装は、印絆天に股引き、ワラジばきで、腰にサイナタ(鞘鉈)を結び付け、晴雨にかかわらず蓑と檜笠を身につけていた。

多摩川の筏流しは、大正の末ごろに急減し、鉄道やトラックなどの陸上輸送の発達とともに姿を消していった。

平成四年十月一日

調布市教育委員会

設置:東京都調布市多摩川5-37

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