天王の森の由来

天王の森の由来碑

この地は東京都多摩市連光寺に在りて、多摩市の一番東に位置し標高百六拾二米で、多摩市で一番高い所であり万葉の昔より多摩の横山と呼ばれ南西に丹沢 西に富士 北に御獄 男体山を望み北東に筑波山があり眼下に絹の如く流れる多摩川を望み関東の連山ことごとく、この地に集まるが如しと万葉の昔に詠まれた詠み人知らずの文があると言われております。

東に日本国の首都東京があり、江戸時代から明治にかけて東京に変わる姿を永い間視てきた森であり昭和の初年頃までは横浜市も高い建物もなく海で、さざ波が又船の出入りもよく見えたと言われており誠に風向明媚の土地であります。

この土地は約二千四百平方米有り古来より当地域の一番辰巳に居宅を構えた屋号が向原と呼ぶ家の土地であり地続きで、所有地であった。その昔、京都市東山区に鎮座しております八坂神社 別名 天王様は村で屋号は向原と呼ぶ家の屋敷内に鎮座しており江戸時代末期に京都市東山区の八坂大神様の御使者が向原家に参り天王様が村で一番高い所に社殿を構えたいと望まれ願いを聞けば当家は、何代かは安泰に暮らせると言われて現在地の天王の森に向原家で個人自費で社殿を新築し御遷宮をしたと、私共の家では御先祖様より言い伝えられており、現在に至っております。

八坂神社は全国に約三千六百有余の神社があり 関東に約九百四社の分社の天王様がある向原家はキュウリは天王様の紋処だと半分にして食べている当地域で平成七年五月二十八日に白山神社並び八坂神社を再建、造営、御遷宮式、又遷座式を挙行し記念に氏子一同平成七年十一月二十二日、二十三日に京都市八坂本宮に、正式神前参拝をして 八坂本宮に末社願いを提出してある天王様であります。当土地は当地域の屋号は向原家より、明治二十七年に約千三百六平方米を天王様に寄贈され今は八坂神社の境内地である。寄贈者 萩原甚平氏より村の代表者である 受贈者 萩原作兵衛氏他二十九人持ちに明治二十七年に登記されております。時の役員は検分をする事に成っている。ゴズテンノウサマガ ヤマトノクニノ ヤマシロノクニ 牛頭天王様が大和の国山城の国 現在の京都市東山区の八坂神社に立ち一句詠まれた句を私共一族朗党四十三名そろい 昭和五十八年八月三日に 京都市を見物の時に拝見する事が出来たので後世に残す使命を感じ残します。昭和五十八年八月十五日記 ヤクモタツイズモヤエガキ ヤエガキツクルソノヤエガキヲ 八雲立つ出雲ノ重垣つまごみに八重垣造るその八重垣を この一句が日本国の和歌の興りであると言われております。

明治三十一年法律第三十二号に依り増微地租の改正に依り登記を平成十七年十一月二十一日 連光寺6-19-1番地の納税義務者の萩原芳郎が検分

寄贈者 向原家萩原甚平 家系 銀之助 憲太郎 現在の納税義務者 芳郎 一徳

受贈者 萩原作兵衛 家系 健之助 高博 現在の納税義務者 弘衛

平成十八年四月吉日

建立者 萩原芳郎 七十七歳
萩原一徳 三十五歳

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