崇徳院は、1119年、鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。当時絶大な権力を持っていた白河上皇は、1123年、鳥羽天皇を二十歳の若さで退位させ、わずか五歳の崇徳天皇を即位させました。これにより崇徳天皇は、鳥羽上皇の恨みを買うこととなり、白河上皇の死後、権力は鳥羽上皇に移り、鳥羽上皇と崇徳天皇の間はますます険悪の度を高めていきました。1155年、鳥羽上皇は、我が子の即位を願っていた崇徳天皇の望みを無視し、崇徳天皇にとっては弟である後白河天皇を即位させました。1156年(保元元年)七月、鳥羽上皇の死をきっかけに、崇徳上皇は、後白河天皇から皇位を奪うため挙兵し、天皇側・上皇側の二手に分かれて、都を舞台に骨肉の争いとなりました。これが保元の乱です。この戦いは後白河天皇側の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐の国(香川県)に配流となり、配流の途中で三年の間、直島の行在所に滞在されたのち、讃岐へ渡られたということです。この歌は、ここ琴弾地の浜で、恋を忘れることができるという忘れ貝をひろい、京の都を恋うる思いを抑えている上皇の気持ちを御詠みになったと伝えられています。直島には、古くから崇徳院に関する伝承が残されており、人びとは、このことについて特別な関心と、崇徳院に対する深い敬慕の念を持っています。