宇喜多秀家の墓
東京都八丈島八丈町大賀郷
八丈島への流人第一号は、関ヶ原の戦いにて破れた豊臣五大老の一人・宇喜多秀家とその長男・孫九郎、次男・小平次の三人とその従者だと言われている。慶長11年(1606)、秀家は33歳の若さであった。
明治3年(1870)明治新政府の恩赦で戻るまでの約260年の間、宇喜多家は秀家の妻・豪姫の実家である加賀の前田家から支援を受け、島に定着していた。赦免後は板橋の前田家に仮住まいの後、正式に屋敷を譲り受けて住むことになったという。
秀家が初代城主を務めた岡山城の礎石が墓所の一角に置かれている。また、岡山および板橋の縁の人たちと八丈島の交流の模様が八丈島歴史民俗資料館に展示されている。
ちょうどお彼岸の季節で周囲のお墓にもたくさんの花が手向けられていた。ハイビスカスやストレリチアなどの南国の花に派手派手しく飾られた墓所の景色にちょっとめまいがした。