2002年3月21日(木)

山中坂防空壕跡

東京都立川市富士見町4-22

山中坂防空壕跡

子どもたちの笑いさざめく平和な声が絶えることのない昭和記念公園は、昭和58年(1983)の開園に先立つ昭和52年(1977)の返還まで米軍基地として使用されていた。さらにその前身は大正11年(1922)に開港した立川陸軍飛行場であり、その東隣に昭和5年(1930)に移転してきた石川島飛行機製作所(のちの立川飛行機製作所、名車スカイラインを生んだプリンス自動車の前身)およびその関連工場と併せて、立川は軍都としての歴史を歩んできた。

立川飛行機が製造する陸軍1式戦闘機・隼は、立川飛行場から次々と戦地へ向かい、緒戦こそ戦果を上げたもののやがて特攻機となる道を進んでいく。米軍はこの戦略拠点をたたくために、度重なる空襲を行い300名以上の立川市民が犠牲となった。

残堀川の途中の山中坂には、空襲によって多くの犠牲者をだした防空壕跡に、鎮魂の地蔵堂と山中坂悲歌の歌碑が建てられている。

「♪あの悲しみをくり返さない あの悲しみをくり返さない」という幽かな歌声が聞こえるような気がする。道行く人々に平和への祈りを伝えようとするかのように。

碑 文