彰義隊の墓・黒門跡
東京都台東区上野公園1-29 清水観音堂周辺
上野公園の桜通りから清水観音堂を見上げると、手前の斜面に建つ石碑が目にはいる。碑には「黒門の由来」とあるけれど、はて黒門はどこに。
江戸時代、上野公園の一帯は寛永寺の寺域だった。上野広小路に面して建っていた表門が黒門で、そこから奥へ伽藍を連ね、現在の国立博物館のあたりに本坊があった。明治維新の際の上野戦争で建物の大半は焼け、現在の上野公園の姿になっている。
黒門の周辺は彰義隊(幕府側)と官軍(明治政府軍)の戦闘の中でも、もっとも激戦の場所として伝えられている。焼け残った黒門は南千住の円通寺に移設・保存されており、無数の銃弾の跡に戦闘の激しさを見ることができる。観音堂の中には、上野戦争の模様を描いた絵が掛けられている。
先の碑は昭和39年(1964)にこの黒門を建て替えたことを記念するものだが、それも今は撤去されてしまった。
戦闘の翌日に物見高い江戸っ子がその跡を見に行くと、官軍の遺骸はきれいに片付けられていたが彰義隊のそれは見せしめのために放置されていたそうだ(※)。清水観音堂の裏手、円通寺の僧らがその遺体を焼いた場所には、彰義隊の墓とされる石塔が建っている。
※ 「東京の「地霊」」(鈴木博之、文春文庫)より
※※ 2013/2/13 右の写真を入れ替えました
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