2005年2月27日(日)

阿豆佐味天神社

東京都立川市砂川町4-1-1

拝殿

砂川の新田開発は、残堀川上流の村山郷岸村に住む村野三右衛門が慶長14年(1609)に幕府に願い出て、寛永4年(1627)から本格的に開拓が始まったとされる。砂川四番にある阿豆佐味天神社は、岸村の隣の殿ヶ谷村から寛永6年(1629)に勧請され、以来砂川の鎮守としてこの地を見守ってきた。

村野家の後裔である砂川昌平は、自分たちのように多摩の豪族の家系に連なる人々を「武蔵野インディアン」と呼んだと、三浦朱門は書いている(※)。対する三浦は維新後の東京に移ってきた新興勢力、すなわち「東京白人」だ。

手水鉢

国木田独歩を初めとする明治の文人たちが武蔵野を称賛する一方で、昭和になると急激な宅地開発や基地建設などで父祖伝来の土地が切り崩されていく。何も知らない新参者が我が物顔で闊歩し「武蔵野の自然はすばらしい」などとのたまうのは、武蔵野インディアンからすればちゃんちゃらおかしい、という事だろうか。

境内には神社の増改築などの際の寄付者の名前が彫られた石碑が何本も立っている。「おらが村」を誇示するかのように、そんな豪族たちの名前がその筆頭に大きな文字で彫られていた。

ここは、迷子の猫の無事を祈る猫返し神社としても有名だそうだ。ネズミから繭を守る猫を大事にするということから、境内にある蚕影(こかげ)神社に猫に関する願をかけると効き目があるらしい。砂川で養蚕が盛んに行われていた時期に勧請された神社だが、今では他の神様と合祀されて立川水天宮になっている。安産を願う人で水天宮が賑わうのが「イヌの日」というのが、ちょっと皮肉。

※ 「武蔵野インディアン」河出書房新社 1982

(説明板) 阿豆佐味天神社本殿 | 手水鉢 | 蚕影神社 | 砂川ゴボウ(JA東京)