加 藤 塚
東京都西多摩郡瑞穂町大字箱根ケ崎315番地
甲斐の武田氏は長篠の合戦で織田信長に敗れて滅びたのだと思っていた。
戦いは天正3年(1575)。実際はこの後も武田家は存続し、滅亡したのは天正10年(1582)、織田・徳川連合軍による甲州征伐による。浅学の至りであった。
武田の残党を匿ったために恵林寺が焼き討ちされるのも、武田信玄の娘・松姫が八王子に落ちのびたのもこの時だ。
箱根ヶ崎にある加藤神社は、ここまで逃れて果てた武田家の残党加藤丹後守景忠を祀っている。教育委員会の説明板によれば一行の命運が尽きたのは天正10年4月11日、武田勝頼が天目山の戦いに敗れて自刃したちょうど一ヶ月後のことだった。
以前2006年に訪ねた時は、狭い敷地に寂れかけた社が建つばかりだったが、その後、道路の拡幅に伴って現在地に移り、社も新調されたそうだ。当時のものではないかとされる五輪塔のほか、寛政6年(1794)や昭和27年(1952)の日付が記された石灯籠などが残されている。
説明板には村民によって懇ろに葬られたとあるが、ふと浮かんでくるのは、黒澤明の名作「七人の侍」(1954)のなかで、農民たちが落ち武者から巻き上げたと思われる鎧兜や刀などを自慢するシーンだ。奇しくもこの数か月後に起きた本能寺の変の際には、敗走する明智光秀が落ち武者狩りにあって命を落としたことが伝えられている。
それほど広くは知られていない史跡ではあるけれど、色々なことに思いが及ぶ出会いだった。
瑞穂町教育委員会の説明板 || 松姫墓所 | 恵林寺
(記:2020年7月29日)