甲州街道万願寺一里塚
東京都日野市万願寺2-38-5
江戸幕府が日本橋を基点に五街道を整備し、慶長9年(1604)に大久保長安が一里塚の設置を決めたとき、その大きさは五間四方(約9m)高さ一丈(約3m)とされていたという。多摩都市モノレール万願寺駅近くでは、往時の原形をとどめた一里塚を見ることができる。
当初の甲州街道は多摩川を現在より下流の万願寺渡船場(現在の中央高速渡河点付近)で渡っていたが、貞享元年(1684)に日野渡船場を使う現在の道筋に変更された。そのため、交通の発達による道路の拡幅や沿道の開発によって多くの一里塚が壊されるなか、ここの塚は幸か不幸か取り残されて現在に至っている。
左の写真手前の自転車を止めている部分が旧甲州街道の跡だ。平成15年(2003)の発掘調査では道に面した石垣(写真に見えているものの裏に埋まっている)の上に宝永の富士山噴火(1707)の火山灰が認められ、それ以前からのものであることが確認されたそうだ。
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