関戸古戦場跡
東京都多摩市関戸5-23
元弘3年(1333)5月16日の分倍河原の合戦に敗れ、鎌倉街道を敗走する北条軍を新田軍が追撃する。横溝八郎や阿保入道父子らの忠臣が分倍河原の対岸、関戸の地に踏みとどまり捨て身の防衛戦を張っている間に、大将北条泰家は辛くも鎌倉に逃げ戻ることができた。
鎌倉幕府の終焉とその後の動乱の時代を伝える軍記物語「太平記」は、関戸での合戦の模様をこう伝えている。
寛文3年(1663)に建てられた地蔵堂の角に立つ「関戸古戦場跡」の標柱を目印に旧鎌倉街道から山側にはいると、民家の庭先に「武将塚」と呼ばれる古墳が残されている。横溝八郎の墓と伝えられるもので、近くには阿保入道の墓もあるが、これも民家の中でわかりにくい。
新田軍勝利の地として記憶される分倍河原に対して、北条軍敗北の地関戸の戦跡はひっそりと集落の中に隠れて息を潜めているかのようだ。
多摩市教育委員会の標柱 || 小手指ヶ原古戦場跡 | 久米川古戦場跡 | 分倍河原古戦場跡